ラストダンスは私に

母の介護日記です

点滴のない10日間

点滴をやめてから、約10日。6月を迎えて、母は意外と元気です。

点滴をやめたら、あっという間に脱水で衰弱するというようなことをドクターから言われていたので、相当な覚悟をしていたのだけど。点滴をやめる直前の血液検査の結果では、心臓と腎臓の数値がとても良かったそうで、ドクターの想像以上に状態を保っているらしい。さすが元健康優良児。

母は毎日経口補水液OS-1ゼリーを1パックから2パック摂取する。脱水から回復しようとするのか、結構な勢いでグビグビと飲む。この1週間ほど、ほとんど水しか飲んでいなかったのだけど、昨日から食欲も出てきて、フルーツゼリーを食べさせてみたら、おいしそうに食べた。キューピーの介護食「やさしい献立」も食べた。レトルトだけど、私が作るごはんよりもおいしいらしい。ハーゲンダッツのアイスクリームには、文字通り食いついてきた。そうこなくっちゃ。それでこそ、私の知っている、食いしん坊のお母さんだ。

部屋を移ったのも良かったのかもしれない。それまで寝ていた部屋は西日の当たる四畳半で、ちょっと狭苦しかったけど、今いる部屋は南向きのリビングで、我が家で一番居心地のいい場所なのだ。ヘルパーさんも、ケアマネさんも、なんだか表情が前よりも穏やかになったと言ってくれる。

私もこの頃は少し気持ちに余裕が出てきて、母を一人にして近所に小1時間買い物に行くことができるようになった。この前、「お母さん、買い物で1時間ほど出かけるね」と言ったら、「何を買うの?」と聞いてきたので、ちょっとびっくりした。この1ヶ月というもの、苦しそうな母を見てきたので、こういう普通の会話をすることが変な感じがしたのだった。まあ、でも娘が買い物に行くって言ったら、何買うの?って思うよね、普通。私は母を「末期癌の人」として、どこか特別扱いしていたのかもしれないな。

熱中症

 

この週末、暑かった。5月とは思えない真夏日が続いた。

母の寝ている部屋には冷房がない。午前中はまあまあ涼しいけど、西日があたる部屋なので、午後3時ごろからかなり暑くなる。この数日、窓を開けて風を通したり、扇風機をまわしたり、うちわで扇いであげたり、こまめに水を飲ませたりして暑さをしのいでいたけど、この部屋の暑さは下手をすると命取り。私は母のベッドを、我が家で唯一クーラーのあるリビングに移動することを決めた。

月曜日、朝一番にベッドをレンタルしている福祉用具の会社に電話して、ベッドの場所を移動してもらうように依頼した。人員の手配もあるので今日すぐにというわけにもいかないようで、それならベッドは後でいいから、先に母だけ移してしまおうと、昼前、ヘルパーさんとたまたま来ていた弟に手伝ってもらって母をリビングに移動する。

そのあと、弟と一緒に家具の大移動。ソファを動かし、テレビを場所を大きく変えた。家具を動かしていると、「そのうち片付けようと思っていたけど、忙しいから取り敢えず後回しにしていた物シリーズ」が色々出てきて、部屋の中がちょっとしたカオスと化す。ああ、これ捨てる前に見直さなきゃ。暑いし疲れているし、めんどくさい…。

運のいいことに、福祉用具の業者さんが「前の仕事が早めに終わったので」と、午後一番に来てくれて、無事ベッドの移動が完了した。ありがとう、ありがとう。

クーラーのある部屋に母を移動できて、これでひと安心と、夕方、1時間ほど母を一人家に置いて買い物に出た。必要な買い物を終えて、最後にコンビニで自分のためにアイスを買って帰宅すると、母が苦しそうにあえいでいた。顔が真っ赤で、汗をかいている。触ると熱い。やばい、熱中症かも。クーラーつけていたけど、部屋があんまり冷えてなかった。母もやばいけど、自分も暑い中帰ってきたばかりで、かなり疲れている。とりあえず片手で買ってきたアイス食べながら、もう片手で母に水を飲ませたり、うちわであおいだり、ネットで熱中症対策を検索したり。でもやっぱり自己判断は怖いので、訪問看護ステーションに電話して、看護師さんにきてもらった。

看護師さんが来てくれた頃には、少し母も落ち着いてきたけど、やっぱり来てもらってよかった。なにより一人では心細かったから。看護師さんは母の首と両脇の3箇所に、タオルで包んだ保冷剤を挟んでくれた。大きな血管が通っているので、この3箇所を冷やすと効率が良いんだって。

看護師さんが帰ったあと、ひとりでテレビの配線をつなぎ直すのに四苦八苦。疲れてて頭が全く働かず、イライラがつのる。テレビの移動をしてくれた弟に、LINEで「なんでケーブル抜く前に写真撮っとかないのよ〜!」と八つ当たりした。ごめんよ。疲れていたけど、朝ドラが見たかったので、がんばった。毎日のささやかな楽しみは大事だからね。テレビが無事について、うれしかった。

点滴をやめる

点滴を続けるべきか、やめるべきか。それが問題だ・・・。ハムレットばりのシリアスな顔で悩んでいたけど、母の「あっかんべー」を見て以来、私の中で拮抗していた力が、ふにゃっと抜けてしまった。

 

翌木曜日。看護師さんがやってきて、前の日に刺したままにしておいた点滴の針に、その日新たな点滴の管をつないでもらった。1時間ほど経った頃、ふと点滴を見ると、雫が止まっている。訪問看護ステーションに問い合わせてみると、肘の近くに針を刺している場合、肘を曲げていると落ちないことがあるのと言われた。たしかに母は肘を力一杯曲げていたので、肘を伸ばしてもらうと、無事滴が再開した。しばらくしてもう一度母の様子を見ると、針をさしたあたりが少し腫れ上がっていて、シーツにはもれた点滴でシミができていた。もう一度訪問看護ステーションに電話して、今度は点滴をはずしてもらった。仕事を終えて「帰りますね」とあいさつをした看護師さんに、母は手を伸ばして握手した。

 

その日は、そのあと大事な出来事があった。

母には長年の懸案事項があった。生まれ故郷の土地の相続問題だ。それは35年前に亡くなった母の母の名義だったが、色々と事情があって相続が先送りにされていた。母は長年にわたりそのことで相当頭を悩ませ続けていたが、今年に入ってようやく相続手続きが動き始めていた。なにぶんにも時間が経ち過ぎていたので法定相続人がどんどん増えてゆき、全員の遺産分割協議書がそろうのが先か、母の命が尽きるのが先かと、家族も担当してくれた若い司法書士さんも気を揉んでいた。そしてその日、ついにすべての書類が整い、司法書士さんが書類をもって家にやってきた。そして病床の母の了解を得て書類に印鑑が押され、土地が母の名義になったのだった。現代社会ではほとんど資産価値のない土地だけど、母にとっては先祖から受け継いだ大切な山や畑だ。家長としての責任感をもって、母はついにその仕事を成し遂げたのだった。

「よかったね、お母さん。おめでとう」私がそう言うと、母は「若いもんが頑張ってくれたおかげだよ」「みんなで力を合わせれば何とかなる」というようなことを、かすれる声で一生懸命に話した。久しぶりに聞く、母の声だった。

 

点滴を中断したこと、長年の懸案事項が解決したことーー。いくつかの偶然が重なる時、まるで出来事に呼ばれたように感じることがある。早すぎもせず、遅すぎもしない、これがタイミングということなのかもしれない。一連の流れを見て、点滴をやめることで私の考えは落ち着いた。

翌日の金曜日の夜、兄弟4人で家族会議を開いた。点滴をやめることで、全員の意見が一致した。これからは水分を欲しがる分だけ摂ってもらって、あとは自然の経過にまかせることになる。

それにしても、「あっかんべー」はすごい説得力だった。この話をしたら、ドクターも看護師さんもヘルパーさんも、みんな大笑いしてくれた。

あっかんべー

介護生活がはじまって、1ヶ月になる。そろそろ私も疲れがたまってきて、今日はちょっと寝坊してしまった。

朝起きたら、今日も息してるかな…と、恐る恐る母の様子を見に行く。それが私の毎朝のルーティーン。今日の母は、朝から元気だった。両目がぱっちり開いて、ちゃんと視線も合わせられる。声も少し出すことができた。

昼頃、ドクターが診察にきた。いつものように点滴をしようとするのだが、いよいよ針を刺せる血管がなくなってきたようだった。こうなると、一度刺したところに針を刺しっぱなしにして、その先の管だけ付け替えるという処置になるらしい。

今後の点滴の処置についてドクターが私に説明しているのを、母は目を見開き、こわばった顔でじっと観察していた。ドクターと私の様子がいつもと違うけど、耳が遠くて話の内容がわからないから、何をされるんだろうという恐怖心があったのだと思う。

母が何かすごく言いたそうにしていたので、ドクターが直接尋ねてみた。

「点滴、嫌ですか?」母、頷く。「針、刺されるの、嫌?」母、頷く。「そうですか。それじゃあ口からしっかり食べなきゃねえ」母、素直に頷く。

このやり取りが、このドクターの素晴らしいところだと思う。私だったら、「点滴しないと脱水になるよ」とか脅すようなことを言ってしまうところだけど、ドクターは「こうすればいいですよ」と伝えてくれる。

点滴をこれ以上続けるかどうか。私の中でまだ答えが出ない。でも、本人がこんなにはっきり嫌がっている以上、その意思は尊重されるべきではないか。。。

ドクターが帰ったあと、「もう点滴やめようか」と母に言ってみた。すると母は口をあけてベロを出した。「ん? 口の中がどうかしたの? 口のお掃除する?」母はそうじゃないというように首を降る。そして右手を目のところに持って行って、下まぶたを引っ張った。

「こ…これはもしかして…あっかんべー?」母、頷く。「誰に? 先生に?」母、首を振る。「点滴に?」母、頷く。

あっかんべーって・・・お前は小学生か!

たとえいくつになっても、寝たきりになっても、このセンス、母は母のままだった。

あたしゃ涙と鼻水流して悩んだのにさ、なんか損した気分だよ。

 

夢の片鱗

先週、14日の火曜日は、横須賀から叔母がお見舞いにやってきた。母の2歳違いの妹だ。80歳を超えた叔母も今、自宅で介護生活をしているので、家を空けることが難しい。大変な状況なのに、とても元気で、日頃話し相手がいないせいか、本当によくしゃべった。そんな叔母の思い出話を通じて、私の知らない母に出会った。

母の故郷は野生の熊や猿がいるような山奥にある。父親を戦争でなくし、男手のない農家の長女として母は育った。子供の頃は、水車小屋まで街灯もない真っ暗な夜道を一里(約4キロ)も歩いて米俵の番をするのが仕事だったという。脚が丈夫になるはずだ。

意外だったのが、詩や短歌が好きな文学少女で、萩原朔太郎の雑誌に投稿して作品が掲載されたこともあったということ。そんな姉の影響を受けて、自分も創作が好きになったのだと叔母は言っていた。

母が詩や短歌が好きというのは初耳で、かなりびっくりした。私が覚えているかぎり、母が本を読んでいるのをみたことがなかったから、そういうことに興味のない人だと思っていた。ましてや詩や短歌を書いていたなんて。小学校の教員として働きながら4人の子供を育てた母。自分の楽しみのために読書をする時間など、まるでなかったに違いない。私も仕事が忙しいときは、本を読む時間も気持ちのゆとりもなかったので、よくわかる。

でもそう言われてみれば、定年退職後に源氏物語の朗読CDか何かを通販で買っていたっけ。結局ほとんど聞かずにしまい込んでいたみたいだけど。それから、いつだったか国会議員の与謝野馨与謝野晶子の子孫だと知ったとき、ひとしきり感心していたこともあった。

母の中にしまい込まれた夢の片鱗を、記憶の中で拾い集める。

「お母さん、むかし詩とか短歌が好きだったんだってね。今度また作ってみたら?」

枕元で話しかけると、うっすらと目を開いて、じわりと涙をにじませた。

点滴

「まだ、点滴、続けるの?」おととい、母がこう聞いた。「だってお母さん、今、水も食事もあんまりとれないでしょう。脱水状態になったら大変だからね、点滴は続けないと」私はこう答えた。母は黙って頷いた。その日の診察が終わった後、ドクターに「母にこんなこと言われて、切なかったです」と話した。

 

今日、診察が終わった後、そのときのやりとりを踏まえて、ドクターから点滴を一日おきにしてはどうかと提案された。今、母にとっては点滴が命綱だから、完全にやめてしまうと、あっという間に終わりを迎えてしまうだろう。でも本人も針を刺されるのを嫌がっている。点滴をしたからと言って、病気から回復するわけでもない。

母にもしものことがあったとき、どうしてほしいか本人から意思を聞いたりしたことはない。兄や弟とは、過度の延命措置はしない方向でいこうと話し合った。私も命が終わるのを自然に見守りたいという意見だ。でも、いざ「点滴を一日おきにしては」と提案されて、すごく動揺した。

母の寝顔を見ながら、点滴が一滴一滴落ちるのを見ていた日、こんな静かな午後が1日でも長く続いてほしいと願った。いつか終わりが来るのがわかっているから。だからもう少しだけ。もう少しだけ、そんな時間を過ごしていたい。

おかしいよね、そんなに仲の良い母娘でもなかったのに。

昨日のブログで、福島の伯母が亡くなった時、点滴でパンパンにむくんだ足を見てかわいそうと思ったと書いた。でも今日、母の点滴を減らすことを提案されて、「そうしてください」とは思えなかった。

頭で考えたことと、実際の感情はまったく別だった。

点滴をどうするかは、検査の結果をみて決めることになった。