ラストダンスは私に

母の介護日記です

訪問看護

わが家に来てもらっている訪問看護ステーションは男性だけの看護師チームだそう。圧倒的に女性の多い看護師業界で、男性だけというのはけっこう珍しいのだという。

母は初対面の若い男性看護師さんに「Kさん」と、下の名前で呼ばれたことがとても嬉しかったらしい。

「お母さん、名前で呼ばれて嬉しそうだね」と私がいうと、「そりゃそうだよ、だってむかしはみんなにKちゃんって呼ばれてたんだよ。Kちゃんでもいいけど、それじゃ近すぎるから、Kさんでいいけどさ」

へええ〜。孫のような看護師さんに、ちゃん付けで呼ばれてもいいのか。母の意外な側面である。

 

今日来てくれた人は、看護師になって2年目の若い男性。病院勤務をやめて、今月から訪問看護の仕事を始めたばかりだという。

「どうして訪問看護の仕事を選んだの?」と私がきいたら、彼は「一人ひとりの患者さんに、もっとていねいに接したいからです」と答えた。病院勤務の頃は忙しくて、言い方は悪いけど「いい加減」にせざるをえないことがあり、それがつらかったのだと言った。

それを聞いて、数年前に亡くなった福島の伯母が末期癌で入院していた時のことを思い出した。当時の看護師さんたちも一生懸命やってくれていたと思うし、人手不足もあったりしたのだろうけど、シーツの交換のときなど、「お願い、衰弱しきっているのだから、どうかもっと丁寧に接してあげて」と思うことが何度もあった。口から食事をとれないと判断されたら、誤嚥を防ぐためだろうか、とうとう最期まで1週間以上、一滴の水も飲ませてもらえなかった。そして水分を補う点滴で足がパンパンに膨れ上がっていた。口に当てられた酸素マスクが不快だったようで、かすれた声で「はずしてちょうだい」と何度も訴えていた。

母が末期癌とわかったときに、まず思い出したのは伯母のその姿だった。あの時の看護師さんたちも、もっと丁寧に接したかったんだと思う。みんな誰だってそうだんだと思う。新人看護師の彼の言葉を聞いて、なんだか私も救われたような気持ちになった。

 

今、ドクターも看護師さんも、母のために40〜50分かけてくれる。昨日はドクターがオムツも替えてくれた。本当にありがたい。

在宅医療は面倒を見られる家族がいるという大前提があって成り立つもので、今の時代それがかなわないことが圧倒的に多いということもわかる。

でもね、でもね。なんだろうね。

看護師さんが忙しすぎて患者に丁寧に接することができないとか、会社勤めが忙しすぎて、病気の家族に会いにいけるのが週末しかないとか、それってなんだろう。どうしてこんなにみんな忙しいんだろう。誰もかれも、どうしてこんなに忙しいんだろう。働くってなんだろう。

二重苦

5月10日金曜日、この日もまた元気がない。

トイレに行きたいと言うので体を起こしてあげたが、座っていることができず、必死に体を支えたが、そのまま後ろ向きに倒れてしまった。

この日は座薬を使い始めて3日目。ようやく便意をもよおしたものの出せなくて、つらそうにしていた。

 

10時にケアマネさん来訪。体を拭いたりシャンプーしてもらうことになっていたが、母はどちらもしてほしくないという。体を拭いてもらう代わりに、お腹をマッサージしてもらっていた。

11時、ケアマネさんが帰ったあと、母は声を絞り出して「今日、先生来る?」と聞いたので、「もうすぐ来るよ」と答えた。その矢先、玄関のチャイムが鳴り、「ほら、来た」と玄関に先生を迎えに行った。

先生は母の顔をみるなり、おやという顔をした。「梗塞っぽいな」と言って、一緒にいた看護師さんと顔を見合わせた。母の両目は不自然に右上を向いていた。「いつからこうでしたか?」「ついさっきまでは普通で…」母は左半身が麻痺してしまったようだった。

癌に加えて、脳梗塞。高血圧だった母はこれまでも小さい梗塞はあったけど、幸い大事には至っていなかった。

もしかしたら前日から具合が悪かったのも、その予兆だったのかもしれない。本人は体調が悪くても、そもそも病気で寝ていたので、異変を表現できなかったのかもしれない。

母がうちに来てから、ドクターと看護師さんが毎日交代で来てくれていたけど、もし病院にいたら、事前に異変を察知できていただろうか。わからない。血圧の薬も時々喉を通らないときがあった。毎日の点滴のほかに、こまめに水を飲ませるようにしていたけど、それでも水分が不足して、血液がドロドロになっていたかもしれない。色々考えることはできるけど、自分を責めるのはやめようと思う。

 

半身が麻痺していても、手のサインで意思を伝えることはできる。その日の午後、母はオムツを指差し、オムツを替えてほしいと訴えた。そこでオムツを開いて見ると、そこは茶色い海だった。朝からもよおしていた便がようやく出てきたのだった。

「ひゃ〜来た〜」と言いながら、オムツを替える。手に便がつくが、不思議と汚いとは思わなかった。

しかも左半身が麻痺しているので、母の体がいつもより重い。オムツ替えが終わる頃には、汗だくになってしまった。母はそんな私の手を握って、満足気にブンブン振った。「ありがとう」の握手のようだ。

数時間後、また「オムツを替えてほしい」のサイン。オムツをあけると、そこは再び茶色い海。「ひゃ〜またか〜」と思いながらオムツ替え。

さらに数時間後、オムツ替えのサイン。恐る恐るオムツの中を見ると、そこは三度茶色の海。もー無理、ひとりじゃ無理。私は訪問看護ステーションに電話して助けを求めた。

すぐに来てくれた看護師さんは、さすがの手際の良さでオムツを替えてくれただけでなく、「摘便」といって、詰まっていた便を手で掻き出してくれた。すごいなあ、看護師って。

母が泣いた日

調子が良かった日の翌日、どうも前の日の元気がない。

その日は午前中に母の生まれ故郷の群馬の親戚がお見舞いにやって来た。母にとっては一番気心の知れた親戚だ。

母の生まれ故郷はいま、世の中の流れに逆らえず、過疎の村になっている。その親戚も1年前から故郷を離れ、一家4世代で埼玉に暮らしている。驚いたことに、94歳の母の叔母もやってきた。母とは10歳ちがいで、姉妹のように育った間柄だ。94歳になるのにどこも悪いところがなく、介護保険の対象にならないのだと言う。母も元来は丈夫だったのだから、病気さえしなければこのくらい元気だったはずなのにと思う。

懐かしい人たちを前に、たくさん話したいことがあるはずなのに、母はもう話をする体力がないよう。最初はいろんな話に相づちを打っていたが、やがて泣き出した。喉をふるわせて。

 

お母さんが泣くなんて。

私が子供の頃、母は絶対泣かなかった。どんなにつらくても泣かない人だと子供心に思っていた。

その母が泣いた。色んな思いが詰まった涙だった。

 

その日はもう、ポータブルトイレを使うこともできなかった。

前の日は何度もトイレに立って、一度もオムツにしなかったのに。

静かな一日

今日の朝ごはんはバナナミルク。バナナと豆乳に、ヨーグルトを少しプラス。

「おいしい」と言って、いつもよりもたくさん食べてくれた。

気に入ったものには、大きな口をあけて待ち受ける。私、子育て中の親鳥になった気分。

 

ご飯の後、血圧の薬を飲ませて、座薬を入れる。

オムツ替えもだんだん慣れてきた。さいしょは抵抗あったけどね。

それから自分の朝ごはん。自分の食事って意外と後回しになりやすい。

明日は母より先に食べちゃおうかな。

 

11時、ドクターの訪問診療。看護師さんと交代で、毎日訪問してもらっている。

母は先生が来ると、いつも仏様を拝むように手を合わせる。

ニコニコとして、よそ行きの「いいおばあちゃん」の顔になる。

そして、先生が帰ると、ムスッとしたいつもの顔に戻る。

その変身ぶりを見ると、やはり在宅にしてよかったなあと思う。

いつもそんなに気を遣っていたら疲れちゃうから。

 

お昼ご飯はコーンスープ。コーンと豆乳をミキサーにかけただけの簡単なものだけど、結構おいしい。

これもお気に入りのようで、大きな口でいつもよりたくさん食べてくれた。

母の食事を作っていると、赤ちゃんだった弟に離乳食を作っていた母の姿を思い出す。

 

食事の後に緑茶を飲む。

昨日、緑茶を出したら、母はしみじみと「お茶の味がする」と言った。

以前はあまり味に頓着しない人だったけど、病気になってから、とても味わって食べるようになった。

そういえば、お粥にフキノトウを入れたとき「苦味が面白くて」と言って、いつまでも口の中で転がして、味わい尽くしていた。

 

午後3時、ふと点滴を見ると、そろそろ終わるはずの点滴が半分も落ちていない。

訪問看護ステーションに電話して、点滴が落ちる速度を調節するレバーを教えてもらった。

もしかしたら、トイレに行くために点滴を動かした拍子に、うっかりレバーを触ってしまったかもしれない。

 

点滴が落ちるのを待ちながら、母の爪を切る。

人の爪を切るのって結構難しく、肉をはさまないように慎重に切る。

農家で育った母の手は、骨太でしっかりしている。私の細い指は父親に似ていて、手の形だけでなく、私が自分の考えを言うと、母はよく「お父さんと同じことを言う」と言う。

体形や体質が似ると、考え方も似るのかもしれないな。

 

午後5時、ようやく点滴が終了する。

窓から西日が差し込んで、窓際に吊るした点滴の雫がキラキラと輝いていた。

時が止まったような静かな夕暮れに、こんな時間がいつまでも続いてほしいと願う。

 

それから処方箋を持って薬局に行く。

薬剤師さんとも顔なじみになってきて、「お大事に」とかけてもらう言葉があたたかい。

 

晩御飯はお粥にした。ネットのレシピを見ながら、土鍋で炊いてみる。

結構手間をかけたのに、お粥はあまり好きではないようで、口が小さくしか開かない。

 

夜9時過ぎ、めずらしく仕事帰りの兄がやって来る。

普段はもっと遅くまで働いているらしいけど、今日は早めに切り上げて来たらしい。

「お母さんのこと考えたら、仕事が手につかなくてな。俺、なんでこんな時に会社にいるんだろうって」

わかるよ、その気持ち。私もこの間まで同じだったから。

だから会社を辞めた。そこになんかすごく本質的な問題がある気がするんだけど、うまく言語化できないでいる。

上手にできた

介護生活が始まってまだ3週間足らずだけど、とても長い時間が経ったような気がする。

立ち座りをはじめ、元気であれば何でもない動きの一つひとつが、今とても難しい。

食べて、出す。それが毎日の真剣勝負。

人間という生き物は突き詰めれば「管」なんだな〜とつくづく思う。

 

今日はベッドとポータブルトイレの間の移動がなかなか上手にできた。

距離にすればほんの何十センチ。その短い距離の移動に最初はかなり苦労して、終わるとヘトヘトになっていたけど、今日は少ない努力で動けたし、私もそうできるように上手にサポートできた。

用を足し終わってベッドに戻った母に「だんだん上手になったよね」と声をかけたら、母は一拍遅れてニパっと笑った。先生にほめられた一年生みたいに、目が生き生きと輝いて、本当に嬉しそうだった。

できないことが増えていく中で、上達することがあるのは嬉しいもの。

 

「お前も大変だね」と母は私をねぎらった。

「大変だけど、面白いよ」と私は答えた。

そう、面白いの、本当に。

母のために自分を犠牲にしたのではないの。

目の前で起きていることと、自分のしている仕事がぴったりと一致しているの。

つまり、やりたいことをやっているの。

だから毎日が濃密で、過ぎた時間を振り返ると長く感じるのかもしれないな。

しあわせだよ

痛み止めの種類が増えたためか、母は意識がはっきりしないようになってしまった。

話しかけても反応がにぶい。目にいつもの生気がない。

痛みに耐える様子を見ているのもついらいけど、ぼんやりして別人のようになっているのを見るのもつらい。

 

退院して、うちに来てからまだ2週間。

その時はまだ歩くこともできたし、自分で食事をすることもできた。トイレにも自力で行っていた。

それがいま、ひとつもできない。毎日、想像以上の速さで弱っていく。

 

今日は朝一番に様子を見にいくと、いつもの母の顔だった。

今日は意識がはっきりしているなと、安心したのもつかの間、そこに苦悶の表情が見て取れた。

「痛い?」と聞くと、苦しそうにうなずいた。

意識がはっきりしているということは、薬が切れたということなのだった。

私があわててかけよると、苦悶の表情を浮かべながら母は言った。

「しあわせだよ」

「えっ…?」

言ってることと表情がまったく違うので、一瞬なにを言われているかわからなかった。

けど、次の瞬間、うっかり泣きそうになった。

 

これでよかったのかな、在宅医療でよかったのかな、と、日々想像以上のスピードで衰弱していく母を見て考え続けていた。母のためには入院してプロの医療スタッフにすべて任せた方よかったのではないかと。

でも、しあわせなら、よかったよ。

令和初日

元号が令和に変わった日。

朝起きて、母に食事を食べさせて、薬を飲ませる。ゴミ出しをしたところで、午前10時。そこへ注文していたポータブルトイレの納入。納品書に「令和元年」と記入する。

ポータブルトイレをベッドサイドに置いて、自分の朝食にしようと豆乳バナナジュースを作って1口飲み始めたところで玄関チャイムが鳴る。葛飾に住む母の妹が夫婦でお見舞いに来てくれて、立派なイチゴとびわをお土産にもらう。

そこへまた玄関のチャイムが鳴って、訪問診療の先生が来る。母のところへ通すとすぐに、また玄関チャイム。夜勤明けの弟がやって来た。一瞬、うちの中がすごい人口密度。弟が話好きのおじさんをゴルフの話題で盛り上げてくれた。すごく助かった。先生から新しい薬の処方箋をもらう。

おばさん夫妻と弟が帰ったあと、入浴の介護サービス。シャンプーもベッドの上でしてくれた。すごい手際の良さに感心。

そのあとケアマネさんとケアプランについての打ち合わせ。その最中に電話のベルがなる。群馬の母の親戚から電話がかかってきて、「あとでかけなおします」と伝える。

ケアマネさんが帰ったあと、母に食事と薬を飲ませる。

私自身は今日まだ果物しか食べてないことに気づいて、食事を作りかけたところで、ああそうだ先生からもらった処方箋を持って薬局に行かなければと思い、買い物に出ようとして、ふと見ると点滴が終わっていたので、まず点滴をはずす。そうだ、親戚に電話かけ直すんだったと思うも、薬局が6時に閉まるので、取り急ぎ雨の中、外出。駅前のドラッグストアで薬と紙おむつ買って家に帰ってきて、午後6時。群馬の親戚に電話をかけてから、母に食事と薬。もらったイチゴと豆乳で、母にイチゴミルクを作る。いつもよりたくさん食べてくれたけど、それでもスプーン5杯くらい。

それから、ようやっと自分の食事。皇室関連の番組を見ながら。

そのあとコーヒを入れて、ブログ書き始めたら、なんか疲れてる自分に気がついて横になる。ちょっとだけ寝て目が覚めたら、母に薬を飲ませる時間。眠っている母を起こすのに30分かかり、嫌がる母に痛み止めの錠剤ひとつ飲ませるのに1時間かかった。そのあとオムツ変えたり、なんだかんだで2時間経過。ふう、疲れた。

令和最初の日。もし街頭インタビューで「あなたはどんなふうに過ごしましたか」と聞かれたら、「忙しかった」と答えるでしょう。

今日は特別忙しかったけど、それにしても人の手を借りることの大切さを実感する。