ラストダンスは私に

母の介護日記です

夕焼け小焼けで日が暮れて

 

6月17日月曜日、母は天国へと旅立ちました。

 

前回ブログを更新した土曜日と同じく、日曜日も母は一日中眠り続けていた。

土曜日は自分で目を覚まして「水が飲みたい」意思表示をしたのだけど、日曜日はもう本当に目を覚まさなかった。心配した私が声をかけて、本当はよくないんだけど、半ば無理やりOSー1ゼリーを口に入れたら、舌で押し返されてしまった。もう本当に何もいらないという様子だった。

日曜日は午後、上の兄が家族3人で来て、そのあと私の友達のセラピストS子さんが施術をしに来てくれた。夜になってから、下の兄がお見舞いにやってきた。その間も、ずっと静かに眠り続けていた。

今日も穏やかな日だったなと思っていたら、夜中になって呼吸が苦しそうな様子が出てきた。痰がからまっている様子だったので、何度も痰を吸引してあげた。結局寝たのは3時頃だったろうか。寝る前に母の寝顔を見ていたら、なぜだか頭を撫でてあげたくなって、小さい子供にするように、「いい子、いい子、Kはいい子」と頭を撫でた。

 

翌朝早く、苦しそうな声が聞こえて目が覚めた。眠い目をこすりながら、また痰の吸引。だんだん私も上手になってきた。

月曜日はドクターの診察日。いつも昼前に来るので、こちらから連絡せずにドクターがくるのを待っていた。11時半にヘルパーさんが来た。母の顔を見るなり「あら、お顔の色が…」と言って首を傾げた。いつもはしっかり赤みがあるのにと言われて、あらためて母の顔を見る。たしかにそうかもしれない。ずっと見ていたので気づかなかった。そのうちに呼吸がますます荒くなってきて、息を吸い込んでは、時々止まるというのを繰り返すようになってきた。もう待っている場合ではないと、急いでドクターに電話をした。ドクターは母を診察して、それから一言「近いね」と言った。血圧はもう40程度しかなかった。呼吸が荒いのは、体内の二酸化炭素を排出しているのだという。

ああ、ついにこの時が来てしまった。ここから先は、医療ではなく家族の時間だ。私は2人の兄と弟に、母危篤の電話をかけた。ドクターは「呼吸が止まったら、電話してください。すぐに来ますから」と言って、母と私の2人だけにして帰って行った。

母の人生の終わりに、どんな言葉をかけたらいいだろう。自分でもどうかと思うけど、「ありがとう」は照れ臭くて言えなくて、その代わり「お母さんの介護ができて、よかったよ。一緒に過ごせて楽しかったよ」。たしかこんな風に言った。そう、この2ヶ月間、楽しかった。本当に。母は私の言葉を聞いて、ピクンと反応した。それを聞いて安心した、という風だった。

やがて兄と弟が会社を早退してやって来た。4人の子供達が頭を撫でたり、手を握ったり、「お母さん」と呼びかけたり。しばらくそんなことを繰り返しているうちに、みんな集中力が途切れて来て、自然と世間話が始まった。たしかその頃ニュースになっていた逃亡犯がどうのこうのという話で、誰かが冗談を言うと、笑いが起きた。全く、こんなときにそんな話しなくてもと思いつつ母を見ると、なんだか嬉しそうで。「お母さん、嬉しそうだよ?」「本当だ、嬉しそう」「みんなが仲良くしてるのが嬉しいんじゃない?」すると、母はニパーッと顔を皺だらけにして笑顔を作った。ええっ、もしかして…と思い、私は試しにもう一度言ってみた。「みんなが仲良くしてるのが…」母はもう一度、顔をしわくちゃにしてニパーッと笑った。そうか、これが遺言だ。「兄弟みんな仲良く」が母の最期の願いなのだった。

この間、カラカラになった口を時々口腔ケア・スポンジでしめらせてあげていたのだけど、やがてそのスポンジをくわえて、ちゅばちゅばと吸い始めた。水が飲みたいなら飲ませてあげようと、私はスプーンで水をすくって、ほんの少し舌の上に乗せてあげた。すると母は「ああ、おいしい」という顔をして、ポロリと涙を一粒流した。ちょうどその時、街に夕方6時の時報「夕焼け小焼け」のメロディが流れ始めた。

 

  夕焼け小焼けで日が暮れて

  山のお寺の鐘が鳴る

  おててつないで みな帰ろう

  カラスと一緒に帰りましょう

 

オルゴールの余韻が消えるのと同時に、母は静かに息を引き取った。

4人の子供に見守られ、それは見事な旅立ちだった。

 

それからドクターを呼んで、死亡診断書を書いてもらった。いつもお世話になっていた看護師さんたちが来て、母の体を浄めて薄化粧をほどこしてくれた。「もしよかったら、ぜひご一緒に」と、私にも体を拭いたり、化粧をするのを手伝わせてくれた。母はとてもかわいい顔をしていた。いつものように、ただ静かに眠っているようだった。兄の小学3年生の娘が、お気に入りのペンギンのぬいぐるみを、おばあちゃんにと抱かせてくれた。なんだか、ほほえましい姿だった。

 

4月の中頃から始まった母の介護生活は、2ヶ月で幕を閉じました。ドクター、看護師さん、ケアマネさん、ヘルパーさん、介護用品の会社の営業さん、ドラッグストアの薬剤師さん、オステオパスの友人S子さん、みなさん本当にありがとうございました。母を一緒に支えてきたこのチームが解散するのが、とてもさみしい気持ちです。このネットワークの中で過ごした日々で、私も胸の深いところが癒されたような気がします。

介護で得た体験、考えたことなどは、少しずつでも言葉にしていきたいので、もしよかったら引き続きこのブログにお付き合いください。ひとまず、第1部は完了です。最後までお読みくださり、ありがとうございました。

 

なだらかな曲線

雨降りの土曜日。

母は眠っている時間が圧倒的に増えてきた。少し前までは、何時間かおきに目を覚まして水分をとっていたんだけど。何日か前から、ほんとうに目を覚ます回数が減ってしまった。

今朝は8;40に看護師さんが来て、ていねいに痰を吸引してくれた。看護師さんがやると、鼻に管を入れられても、あまり苦痛を感じないようだった。さすがはプロフェッショナル。看護師さんが吸引するのを観察していたら、管をあまり押し付けず、痰がヒットしたら吸い上がってくるのをゆっくり待っていた。なるほど、掃除機と同じで、ギューギュー押し付けたり、せかせかと動かすのは効果がないのだね。

看護師さんが帰った後、母は11時頃に一度目を覚まして、ストローを吸うように口をすぼめて見せた。これが最近の「水が飲みたい」サイン。OS–1ゼリーを半分ぐらい飲んだあと、今日はそのままずっと眠り続けている。痰もきれいに取ってもらったので、息苦しい様子もなく、穏やかな寝息を立てている。夕方5時頃に爪を切ってあげたのだけど、私が手を触ったり色々動かしたりしても、ちっとも目を覚まさなかった。そのくらい深い眠りが続いている。

ふと、気づく。今週の初めに、ドクターが「遠からず意識がなくなるでしょう」と言ったこと。もしかしたら、それがもう始まっているのかもしれない。昏睡状態はある日突然訪れるものと思って身構えていたけど、そうか、こんなふうに静かに、さりげなく、日常の続きとしてやってくるのか。だとしたら、死も同じように、眠りの延長線上に、静かに、さりげなく、なだらかな曲先を描いた先に、ふっと途切れるようにしてあらわれるのかもしれないな。

痰の吸引

誤嚥騒動をきっかけに、我が家に新たにやってきたもの2つ。酸素吸入器と、痰の吸引器。痰の吸引は家族がしてよいそうで、看護師さんが吸引器の使い方を教えてくれた。ただ、看護師さんは管を鼻の穴から挿入するけど、さすがにそれは怖いので、私は口から挿入している。最初はおっかなびっくりだったけど、3日もすると何事も慣れてくるもので、だんだん上手に使えるようになってきた。

母も痰を吸引されることに、だんだん慣れてきた。最初の頃は私が管を入れるとくわえてしまったり、舌で押し返して抵抗したりしていたけど、今朝は喉をひらいて管を通す感覚をつかんだようで、それ以来スムーズに吸引させてくれるようになった。喉に管を入れられるのは一瞬気持ち悪いけど、痰を取ってもらうと楽になるってこと、ちゃんとわかっている。この数日は頷いたり首を振ったりの意思表示もできなくなってきたけど、表現できないだけで、意思や判断力は失っていないのがわかる。

 

膵臓から始まった母の癌は、今いろんなところに転移しているらしい。3月末に20,000くらいだった腫瘍マーカーは、点滴をやめた5月中旬の時点で120,000を記録した(ちなみに基準値は37.0)。これは計測できる最大値なんだという。半身麻痺になってしまった原因も、脳梗塞だけでなく、脳に転移している可能性が高いとのこと。精密検査をしていないから、どちらなのかわからないけど。遠からず、意識が無くなってしまう日が来るだろう。そうなのか。そうなんだ。うん、そうなんだな。

いのちの終わり、という一点だけを見ると、それは悲しい。でも、母の人生全体を含めて、いのちの終わりなのだと思うと、決して悲しいだけではない。

ドクターも看護師さんも、折に触れて、母だけでなく母を介護する私のこともとても気遣ってくれる。私が自分を責めないようにと、考え方や心の持ち方を伝えてくれる。それはとても大切なことだと思う。

誤嚥騒動

おいしそうに黒蜜きなこプリンを食べた翌日の金曜日。母の様子を見ると、苦しそうにして眉間にしわをよせていた。ドクターに電話をして、痛み止めの錠剤を飲ませた。薬が効いたようで、苦しそうな様子はなくなった。そして、その日はそのままずっと眠り続けた。半日以上眠り続けた。その間、私は水分をとらせなければと思って、数時間おきに経口補水液のOSー1ゼリーを飲ませてみたけど、もうろうとしていてうまく飲み込むことができない。寝ている時に口のなかに残っているといけないので、スプーンで口の中のゼリーをかきだした。

 

その翌日の土曜日、朝起きて母の様子を見ると、ゼイゼイと苦しそうに息をしていて、喉のあたりではゴロゴロと痰が絡まる音をさせていた。その日は朝8時40分に訪問看護の予定だったけど、それまで待っているのが心配だったので、まずはドクターに電話で相談して、看護師さんに早めにきてもらうように依頼した。看護師さんは母の背中をたたいたりさすったりして、喉につかえている痰をはきださせようとしてくれたけど、肺活量が少なくて吐き出すことができない。

そのうちにドクターも往診に来てくれた。この日は玄関のチャイムを鳴らすや、私がドアを開けに行くのも待たず入ってきた。いつもの穏やかな様子と違って、すごい緊迫感だった。看護師さんが喉の奥をガーゼで拭うと、なにかがたっぷりぬぐい取れた。「心当たりありますか?」と看護師さんが見せてくれたもの、それはきな粉だった。木曜日に食べた、プリンのトッピングに黒蜜と一緒にかけたきなこが、丸一日以上も喉にへばりついていたようだった。さらに吸引器で詰まっているものを丁寧に取り除いてもらったら、喉のゴロゴロ音はおさまった。

 

思えば、金曜日に苦しそうにしていたのは、喉にへばりついていたきなこで呼吸が苦しかったのかもしれない。口腔ケアはしっかししていたつもりだけど、喉の奥までは掃除が行き届いていなかった。前日にほとんど水分をとれなかったのも、喉の詰まりを悪化させてしまったのかもしれない。薬で半日以上も眠り続けたのは、ふだん使っているテープ式の痛み止めに加えて、錠剤を重複して使ったので効きすぎてしまったためらしい。事前にドクターに相談したとはいえ、安易に痛み止めの薬を飲ませる前に、もう少し慎重に見極めておけばよかった。

 

以下がドクターからの注意点。

「液体なら液体だけ、個体なら個体だけ。プリンときなこのように、性質の異なるものを一緒に食べさせないようにしてください。それから、意識がはっきりしていないときには、食べ物や飲み物を口に入れないように。目が覚めたばかりのときや薬を飲んだときは、特に注意してください」

はい・・・心得ました。点滴をやめてからというもの、少しでも口から水分を取ってもらおうと躍起になっていました。与えるのは本人が欲しがるだけと思いながらも、やっぱり私の不安から、私が安心する量を飲ませていたところがあったことに気がつきました。

 

その日は、念のために午後にもう一度看護師さんに様子を見に来てもらった。その時は喉のゴロゴロ音はしなかったけど、夜遅くになってまた音がし始めたので、訪問看護ステーションに電話して10時頃にまた看護師さんに吸引に来てもらった。吸引が終わったのは夜11時。頑張ってくれたお礼に冷たいお茶を出したら、看護師さんは気持ちよくグラスを一気に飲み干した。若いって素晴らしい。早朝から夜遅い時間まで、本当にありがとう。

今回は一過性の誤嚥で、幸いにして肺炎にはいたらなかったのは幸いだった。

この事件をきっかけに、母には酸素チューブが取り付けられた。

梅雨入り

昨日は親戚が一家四人でお見舞いに来てくれた。1ヶ月前にも来てくれた、母と一番親しい親戚だ。声をかけると、うっすらと開いた目で、誰が来たかを理解したようだった。

せっかく遠くから来てくれたのだからと思って、私は「お母さん、何か話せる?」と発言を促してみた。すると母は一生懸命口を動かして、かすれる声で何かを伝えようとしていた。まるで遺言を聞くかのような雰囲気で、全員が真剣に耳をそばだてた。

「あしたの…あさ…」「うんうん、明日の朝ね」「さむい…」「えっ、寒い?」「明日の朝寒い?」

言ってることはわかったけど、脈絡がつかめず、全員ポカンとした。

「…もしかしたら、明日から寒くなるってことが言いたいんじゃない?」と誰かが言った。そういえば、天気予報で明日から気温が下がるというようなことを言っていたっけ。母のベッドはリビングにあるので、テレビの天気予報を見て覚えていたのだろう。

てっきり「来てくれて、ありがとう」とかいうのかと思ったら、明日の天気の話かい!

もっといいこと言えばいいのにと思ったけど、それはやっぱり私が感動を求めたがるからなんだな。

母はふだんから天気予報が大好きだった。たとえ寝たきりになっても、それは変わらないんだ。私はやせて骨と皮みたいになった母の姿をみて、もうそんなに長くはないだろうとか思っているけど、本人はいたって普通に日常を生きているんだ。

それから、母はお土産にもらった黒蜜きなこプリンを食べた。気に入ったみたいで、大きな口をあけて3〜4口食べた。

今日のニュースで、関東地方が梅雨入りしたといっていた。あとでお母さんに教えてあげよう。

介護離職

介護をきっかけに会社をやめた。連休前を最終出勤日にして有給を消化し、5月末に正式に退職した。

母の末期癌がわかった4月上旬、会社にはすぐに退職の意思を伝えて、引き継ぎのために週に何回か午後から出勤をした。その頃の母はまだ自力でトイレに行くこともできたので、私は家に母を置いて会社に行った。でもなんか、それがものすごくつらかった…。

母を自宅に残して初めて出勤した日。午前中は母に食事をさせたり、薬を飲ませたりして、その後会社に行った。オフィスの扉を開けると、10人くらいの同僚たちが全員、一人でパソコンに向かって黙々と仕事をしている姿が目に入って来た。それは何年も見続けてきた職場の日常風景なんだけど、見た瞬間、気持ち悪くて吐きそうになった。なんというか、自宅と会社の世界があまりに違いすぎて。極端な例えだけど、自分の家が火事になっているのに、火を消すこともできず、急ぎでない仕事を強いられているかのような気分。自分に起きていることと、それに対する気持ちと、取っている行動が、あまりにかけ離れていた。

 

出がけに「お母さん、会社に行ってくるね」と言った時の、母の心細そうな顔を思い出した。私が子供の頃、学校の先生をしていた母はいつも家にいなくて、私はそれがさみしかった。その母が、今度は仕事に出かける私に向かって、さびしそうな顔をする。私と母の立場は逆転してしまった。

だから私はいま、会社を辞めて母の介護をしているのかもしれない。介護という形を取って、母に甘えているのだと思う。

久しぶりの外出

先日、久し振りに平日の昼間に電車に乗って外出をした。電車は少し混んでいたけど、私は座ることができた。しばらくすると、私の近くに立っていた40〜50代の女の人が、突然床にしゃがみこんだかと思うと、おもむろにメイクを始めた。荷物がパンパンに詰まった大きなバッグを3つ抱えて、必要最低限の身支度だけしてとりあえず家を出てきました、といった風だった。まわりの人もちょっとギョッとしていた。

私も電車の中でメイクするのはどうかなと思うし、もっと若い頃に「きれい目OL」をやっていた時期は、「そういうの信じられない」と思っていたし、電車の中でメイクする人を視界に入れたくないから、車両を移動したこともあった。

けど、この間は「ああ、わかるわ、忙しいんだよね〜」って共感した。しなくちゃいけないことが山ほどあって、きちんとしたくても、その余裕がないんだよね。母の介護生活を始めてから、私も食べ終わった食器を洗わずに一晩放置したり、お風呂に入らず寝てしまったり、メールを返信もせず何日も放っておいてしまったりするから。電車の中でメイクをしなければいけない人の気持ちも、今はわかる。

だから、自分が降りる時に、その人に「どうぞ」と言って席を譲った。座ってゆっくりメイクしてください、というつもりで。昔の私だったら、絶対にしなかった。

私も随分と寛容になったものだと思う。そして、人に寛容である方が、厳しい自分でいるよりも、ずっと生きやすい。